25年前のあの日
あの日から今日で25年が経ちます…
1995年1月17日午前5時46分
1人で暮らしていたマンションの一室でまだ私は布団の中にいた。突然ドンドンとしたから突き上げる音と共に地面が張り裂けるような地響きが聞こえた。押入れの天袋が開き中から色んな物が降ってきて、私は布団に潜り込んだ。
「何?何?地震?」『死ぬかも』と思っていると次に来た『横揺れ』まるでフライングカーペットに揺られているような外に投げ出されるかと思うような大きな横揺れ。足元のテレビが飛んで来た。「ガチャガチャガチャガチャ」「バリバリバリバリ」「ドドーン」いろんな音が聞こえる中、布団にしがみついていた。
ようやく揺れがおさまり、辺りを見渡すけど、裸眼が0.02の私は何も見えず、メガネもどこにあるか分からず…逃げるべきなのかどうなのかも分からず呆然としていた。そして隣の一軒家から家族を呼ぶ声が…
これはただ事ではないと思い、外へ出てみることにした。この時一番に思ったのは「ケガをしてはいけない」そして暗闇の中必死で探し出した靴下を履き外へ出た。倒れた冷蔵庫や洗濯機の上を歩き、なんとか玄関へ。
そして公園まで歩く途中、道路の地割れにつまづき転んでしまう。
公園には近所から沢山の人が集まっていた。
辺りはまだ暗くとても寒い朝だった。
見ず知らずの人がくれた携帯カイロは本当に温かくて涙が出た。
そして次第に辺りは明るくなり、私たちが見た景色は…二階建ての家は一階部分が潰れて傾き、大きなマンションも一階の駐車場が潰れて車が下敷きに…電柱も倒れて道路を塞ぎ、コンクリートの道路も何箇所も地割れが起きていた。みんな言葉を失い、同時に『何かしないと』いたたまれなくなって、皆で近所の一人暮らしのお年寄りの家を訪ねて回った。(昨日まで赤の他人だった人たちが気がつけば一緒に行動していました)
中には家の下敷きになっていたり、家具が倒れて出られなくなっていたり、頭から血を流している人も…救急車は当然待っても来ることはなく、自分たちで運ぶしかなかった。
これが震災当日の様子。
そこからしばらくして私は今の夫の実家がある奈良に避難し、そこからしばらく神戸まで通勤していた。勤務先は当然学校という機能は停止し、『避難所』に。非日常的な生活はしばらく続いた。
神戸に帰ってこられたのは3月。
ライフラインが全面的に復旧したのは初夏の頃だった。
あの時、全国からボランティアで沢山の人が神戸に集まり、私たちは助けてもらいました。そのおかげで今ではあの日何もなかったかのように、神戸の街は復興しました。
震災が起こったことで生まれた絆、そして失った物や人…いろんな想いや出来事を乗り越え、今があります。
そして、この25年の間に東日本大震災など、全国で、世界で様々な災害にみまわれ、多くの人が今もなお日常を取り戻すことが出来ずにいらっしゃると思うと、胸が締め付けられます。
災害はいつどこで起こるかわかりません。
‘備えること’それは、減災。
神戸が立ち直ってきた過程には、いくつもの苦しみや悲しみを乗り越えるための人々の支えがありました。
感謝を伝えること、次世代に伝えること…それが経験者の使命だと思います。
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